幻の、レインフォレスト・カフェ

バリ島の中西部にそびえ立つバトゥカウ山のどこか、広大な熱帯雨林の中に埋もれるようにそのカフェはあるという。徒歩で急峻な山道をつたい、雨に濡れた岩肌に足を滑らせながら、行き着くのは無理だとあきらめかけた頃、深い緑の木々の間からそのカフェは姿を現すらしい。カフェから見る景色はそれはそれは素晴らしく、誰にとっても忘れられない場所になるという。モンキーフォレスト近くのバーで、この島に住み着いて4年になるオランダ人が酔った勢いで喋った話だ。
眉唾な話だなと思いつつも次の朝さっそく、友人でもあるバツゥに電話した。レインフォレスト・カフェという名前は聞いたことはあるが、行き方はもちろん知らないし、バツゥカウ山麓にあることも初耳だと言った。

それでも、「わかった、ガイド仲間に当たってみよう」と言ってくれた。友達とは本当にありがたいものだ。その夜バツゥは一人のジャワ人を連れて来た。男の名前はムニルといった。2年前、ムニルはフランス人といっしょにそのカフェに行ったのだ。ただ、フランス人に連れられて行っただけだから、はっきり道を覚えていないが何とか行けると思うと言った。その次の朝、ムニルはいささかくたびれたローバー・ランドクルーザーに乗って、私とバツゥを迎えに来た。車のルーフキャリアには棺桶のようなバスケットが積まれていた。バトゥカウの森は深くて広い。だから念のための用意が必要なのだ。私には遥かな旅に出るキャラバンのように思えた。

バトゥカウ山麓の最後の集落を通り過ぎた頃、空は厚い雲に覆われ始めた。やがて舗装道路は消え、穴ぼこだらけのワインディングロードを、ローバーのエンジンは悲鳴を上げながら登ることになった。ジャングルは高度が上がるごとに深く厚くなった。いつか頭上を覆う椰子の葉の向こうからは大粒の雨が落ち始めていた。揺りかごで揺られるようにローバーは進み、ムニルは時々ローバーを止めて進むべき道を確かめた。やがて左手にガジュマルの大木が見えたとき、われわれは車を降りることになった。棺桶のようなバスケットから取り出されたものは使い古されたアノラックと登山靴、そして一抱えもあるバックパックだった。何かのジョークかと思ったがムニルに笑顔はなかった。

3人がアノラックを着込み、登山靴をはいてバックパックを背負ったとき、雨は一段と強くなっていた。 けもの道のような山道は降り続く雨で川となった。足が滑る。背負い慣れていないバックパックが肩に食い込む。歩き始めて30分ほどで帰りたくなってきた。どうしてオランダ人なんかと会ったのだろうと、自らの不運を嘆いた。それでも背中を押してくれるバツゥに感謝しながらムニルに遅れないよう歯を食いしばった。2時間近く歩き続けたとき、ジャングルの向こうが明るくなって、山道が大きく右に回りこんでいた。もうじきジャングルを抜けるんだと分かった。頭上に空が広がった。そしてムニルが指差した500メートル先の右手下方、大きな断崖の上にしがみつくようにレインフォレスト・カフェはあった。

カフェの入り口はそれとは思えないほど小さく貧相だった。しかしカフェのテラスから見る景色は声も出ないほど雄大で、降りしきる雨の中でも十分な感動があった。ここまでたどり着けたことを神様に感謝したい気分だった。 ふと気付くと、一番奥のテーブルで私に微笑んでいる男がいた。バツゥとムニルも大笑いしながら私を横目にハイタッチしていた。よく見るとテーブルの男はあのオランダ人ではないか。「ようこそレインフォレスト・カフェへ」と言いながらオランダ人は私に近づいてきて、ワタシを右手の扉の方へ誘った。
「どうしてお前がここにいるんだ?」と思いながら、扉を抜けると、さらに美しく雄大な景色を背負ったメインダイニングが広がり、何組かの客が静かに食事を楽しんでいた。

私たちが入ってきたのは裏口だったのだ。車のブレーキの音に目をやると、正面入り口前の駐車場に一台のメルセデスが入ってきたところだった。その横にはなんとムニルの薄汚れたローバーが止まっているではないか。
そうだったのか。私はその時やっとバツゥとムニル、そしてオランダ人にハメられたことに気がついた。するとバツゥが近づいてきて「ハッピー・バースデー!」と言った。そうだった、今日は私の49回目の誕生日なのだ。「バースデー・プレゼントはどうでした?」。確かにね、忘れられない誕生日プレゼントだったよと言いながら、私はバツゥに殴りかかっていた。

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