クラカの町はずれで朝食をとった。もう半分くらいまで来ているのかとゴフルにたずねると、ちょっと曖昧な顔をした。

ゴフルの部屋でジャワ行きを決めたとき、バニュワンギからスラバヤまで鉄道で行くのはどうだろうかと持ちかけてみた。インドネシアではスラバヤはジャカルタに次ぐ第2の都市、バニュワンギは世界のリゾート・バリ島へのフェリーターミナル。バンコクとシンガポールを繋ぐマレー・オリエンタル急行とは言わないまでも、それなりのリゾート急行が走っているのではないかと思ったのだ。ところがゴフルの返事は、ノー。そんな列車は見たことがないと言った。
クラカの町はずれで朝食をとった。油で揚げたパンをチャイで流し込みながら、もう半分くらいまで来ているのかとゴフルにたずねると、ちょっと曖昧な顔をした。ゴフルの家まではまだまだなのだ。プロポリンゴまでは道路と鉄道はつかず離れずで並行した。途中踏切で列車に遭遇した。ディーゼル機関車が2両の客車を引いていたが、私の想像した急行列車にはほど遠い車両で、薄汚れた外観にあふれんばかりの客を詰め込んでいた。

いつかテレビで見たインドの列車を思い出した。ゴフルの言うとおりクルマで来たことに感謝した。あれでは真夏の「通勤地下鉄」「エアコンなし」「思いっきり汗くさい」という状態以下であろうと思われた。
パスルアンを通過してしばらく走ると高速道路に乗ることができた。スラバヤまでジムニーは悲鳴を上げながら走った。3車線の道路でメルセデスなどの高級車が横をスイスイと追い越していく。排気量も車格も違うのだから当たり前のことなのだが、ゴフルはジムニーでそれらと張り合おうと、床いっぱいにアクセルを踏み続けていた。追い抜かれることを極度に嫌うのである。それはゴフル個人の傾向ではなく、インドネシア全体、いや東南アジア全体に見受けられる傾向でもあった。とにかく前を行くクルマを追い抜くのが大好きなのである。スラバヤ市内で高速道路を下りると朝のラッシュに身動きが取れなくなった。ゴフルは懸命に脇道を捜して入り込むのだが、大した差は無いように思われた。

出会った頃からゴフルの家はスラバヤにあると聞いていた。それで、悪く見積もってもスラバヤ郊外だろうと思っていたから、渋滞に巻き込まれても「もう直きだから…」と楽観していた。ところがスラバヤを抜けてもジムニーは止まらない。グレシという町に入ると、ゴフルからルトフィという弟がここで警察官になっていることを聞いた。この頃になると家が近づいたせいかゴフルの表情も和らいできた。それから20分後、ケチャマタンという小さな町でジムニーは止まった。町を抜ける幹線道路沿いにゴフルの実家はあった。お昼になろうとしていた。クタを出てなんと20時間以上が経過していたのだ。

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