タイの空気感「プーケットの憂鬱」

拡声器のようなスピーカーからひび割れたムエタイ・ミュージックが流れる中、先に青コーナーから選手がリングに上がった。続いて赤コーナーから頭をタオルで隠した選手が、正面スタンドに陣取った応援団の歓声に背中を押されて登場した。その夜きっての目玉の試合だった。恒例の神様に捧げる踊りをそれぞれ勝手に始め、まもなく踊りを終えた青コーナーの選手に対し、赤コーナーの選手は延々と儀式を続けた。

これは大相撲で言うところの「しきり」と同じなのだろうが、それまでの試合を見ていて、弱い選手ほど儀式が長いということを理解していた。神に捧げるというより、神様に頼み込む踊りなのかも知れなかった。
1ラウンドは互いに様子を見る展開だった。素人目には赤コーナーの選手に勢いがあるようだった。2ラウンド目はパンチとキックの応酬があったが、さほどヒットはしなかった。観客の様子からも盛り上がりには欠けていた。

燃えよムエタイ。でも燃え上がったのはリングよりも観客席だった

ところが3ラウンド目のゴングが鳴り、青コーナーの選手がパンチやキックを繰り出すたびにこぶしを突き上げながら飛び上がる女が、ワタシの視界の左端間近に出現した。先ほどまでは中学生くらいの娘を横にして静かに観戦していたはずなのに、この変身ぶりは何だ。やがて大声を出し始め、何かに取り憑かれたような応援を繰り広げた。まるで霊媒師がトランス状態に陥っているようだった。それほど特異で強烈な興奮の有様だったし、リングの上より遙かに面白い出し物だった。いったい何が彼女をこのトランス状態に引っぱり込んだんだろう。青コーナーの選手は息子なのか。

それともこの試合にひと財産つぎ込んでしまったのか…。想像力は頭の中を駆け回った。
ふと横を見ると、娘は母親の興奮も意に介せず、退屈そうにアイスクリームをなめ続けている。やがて5ラウンドの対戦は終わり、青コーナーの選手の右手がレフリーによって掲げられた。女は勝ちに興奮することもなく、娘の横に腰を下ろして何か話している。いたって冷静な態度と表情である。「えっ、どういうこと?さっきのは何?」。面白かったからいいようなものの、ワタシの貧相な想像力は訳も分からないまま、スタンドのベンチに置いてけぼりになった。

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