ナマステ/ネパール顛末記

ジャパニーズ・ネパーリ、オギさんが行く。

その人とは空港の駐車場で出会った。カトマンズにやって来た我々を、じゃなくて高岡氏を出迎えに来ていた。高岡氏から名前を聞かされたはと思うが、ネパールに着いたばかりでプチ興奮状態にあった私は覚えていなかった。
次に会ったのはパシュミナの店「穂高」の前だった。いっしょにチベット料理を食べるために、わざわざパタンから来てくれたのだ。店の中では奥方たちが目の色を変えて値引き交渉をしていた。オギさんはバッグを肩から斜めにブラ下げたスタイルが妙に似合っていた。その姿が彼の全てを物語っているように思えた。

バクタプルから帰りのクルマの中で高岡氏とデブさんが「オギさん、オギさん」と言って話をしていたから、その人の名前は「オギ」さんだと思っていた。 「今日もバイクですか?」とたずねると、バイクには乗れないからバスで来たということだった。「でも空港にはバイクで来たんじゃなかったですか」「あ、あれね。ボクはバイクには乗れないから、事務所の人に乗せてもらったの」。確かにこのカトマンズでは、バイクに乗るなど、怖くてできないことではある。パタンからカトマンズまでのバス賃は7ルピーだという。

日本円にして10円あまりではないか。「バス賃10円」にネパール人の暮らしの一端を見たような気がした。
チベット料理店での高岡氏の紹介で、オギさんは荻原さんだということが分かった。単身赴任かと思ったら独身だった。独身でないとネパールあたりまでやって来れないなとも思ったが、少しうらやましいような気もした。2年間日本に帰っていないという荻原さんは、口ぶりも趣きも、もはやネパール人の空気感を醸し出していた。2年間でそうなったのか、それとも元々なのか表情も穏やかだ。外国で暮らすストレスがないはずはないが、年の功が隠したのか見て取れなかった。

3度目は我々が荻原さんの事務所に押しかけた。ビルも事務所もネパールにあるとは思えないくらい日本的だった(つまりキレイで清潔だった)。中に入ると女の子に囲まれた笑顔の荻原さんがいた。みんなのお父さんのようでもあった。不思議とその空間に似合っていた。
荻原さんがネパールに来たのはどういう経緯だったのかは知らないが、日本を遠く離れて暮らすというのはどんな感じなのだろう。よくぞ決断したものだと思う、あの年で(はっきりと年齢は知らないが)。いつまでネパールに駐在することになるのかも知らないが、また、ネパールで会いたいものだと思う。

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